浄土宗 と 浄土 真宗 の 違い を 分かりやすく解説!

「浄土宗と浄土真宗の違いって、なんだか難しそう…」と思っていませんか? 実は、どちらも「阿弥陀仏(あみだぶつ)」という仏様を信じて、亡くなった後、阿弥陀仏が住む「極楽浄土(ごくらくじょうど)」へ行けることを願う教えなのですが、その信じ方や、どうすれば極楽浄土へ行けるか、という点に少し違いがあります。今回は、そんな 浄土宗と浄土真宗の違い を、できるだけ分かりやすく説明していきますね。

念仏の回数と唱え方:救われるための方法論

浄土宗と浄土真宗の最も大きな違いの一つは、念仏の唱え方やその回数に対する考え方です。浄土宗では、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と唱えることが大切だとされています。この念仏を唱えることで、阿弥陀仏の救いを受け取ることができると考えられています。具体的には、

  • 善導(ぜんどう)和尚 の教えに基づき、阿弥陀仏の救いを得るためには、一心に念仏を唱えることが重要視されます。
  • 称名念仏(しょうみょうねんぶつ) 」といって、声に出して念仏を唱えることが推奨されます。
  • 念仏の回数についても、 「三称(さんしょう)」 、つまり3回唱えれば必ず往生できる、という考え方もありますが、回数を重ねるごとに功徳が増すとされることもあります。

一方、浄土真宗では、念仏は「 往生(おうじょう)の信(しん) 」、つまり阿弥陀仏が必ず救ってくれるという「信じる心」を表すものだと考えられています。そのため、念仏を唱える回数よりも、阿弥陀仏が私たちを救ってくれるという「 他力本願(たりきほんがん) 」の教えを信じることが、何よりも大切なのです。この「信」こそが、極楽浄土へ往生するための絶対条件だとされています。

まとめると、

浄土宗 浄土真宗
念仏の目的 阿弥陀仏の救いを受け取るための行 阿弥陀仏の救いを信じる心の現れ
重視すること 念仏を唱えること(称名念仏) 阿弥陀仏の救いを信じること(信)

阿弥陀仏の救いへのアプローチ:自力と他力

浄土宗と浄土真宗の教えにおける「救い」へのアプローチにも、違いが見られます。浄土宗では、阿弥陀仏を信じ、念仏を唱えるという「 善行(ぜんぎょう) 」を行うことで、阿弥陀仏の救いを受け取ることができると考えられています。これは、自分の行いによって救いを得ようとする側面があると言えます。

しかし、浄土宗も決して「自力」だけを強調しているわけではありません。 阿弥陀仏の慈悲(じひ) が根底にあり、その慈悲にすがって念仏を唱えることが、救いにつながると説いています。念仏を唱えるという行為そのものに、阿弥陀仏の救いの力が宿っていると信じているのです。例えば、

  1. 念仏を唱えることで、煩悩(ぼんのう)から解放され、心が清らかになる。
  2. 阿弥陀仏とのご縁が深まり、極楽浄土への道が開かれる。
  3. 往生への願いが強まり、仏様のお力添えをいただきやすくなる。

一方、浄土真宗は、 「他力本願」 を徹底しています。これは、人間自身の力(自力)では、どんなに努力しても阿弥陀仏の救いを得ることはできない、という考え方です。阿弥陀仏が、すべての人間を救うために、すでに私たちがお浄土へ行けるように準備してくださっている、というのが浄土真宗の基本的な考え方です。つまり、私たちはただ、その救いを「信じる」だけで良いのです。

この「他力本願」の考え方を、さらに掘り下げてみましょう。

「信」がすべて?:浄土真宗の核心

浄土真宗では、「信」こそがすべてである、と言っても過言ではありません。阿弥陀仏が私たち一人ひとりを救うために、一切の行いを私たちに代わって成し遂げてくださった、という「 本願(ほんがん) 」を信じること。これが、浄土真宗における救いの鍵なのです。

「本願」とは、阿弥陀仏が私たちを必ず極楽浄土へ迎え入れると誓われた、48の願いのことです。その中でも特に重要なのが「 第十八願(だいじゅうはちがん) 」で、これは「 念仏して、もし浄土に生まれられないならば、仏になることをやめます 」という、阿弥陀仏の強い誓いです。この誓いを信じることこそが、浄土真宗の修行の中心となります。

  • 阿弥陀仏が私たちを救うために、すでにすべての準備を整えてくださっている。
  • 私たちは、その阿弥陀仏の救いを、ただ「信じる」だけでよい。
  • 「信」によって、阿弥陀仏の救いの力が私たちのものとなる。

この「信」は、理性で理解できるというよりも、心の底から湧き上がるような、感謝の気持ちを伴うものです。この「信」があれば、念仏を唱える回数や、その他の行いの善し悪しに悩む必要はなくなります。

念仏への考え方の違い:称名と帰敬

先ほども少し触れましたが、念仏への考え方にも違いがあります。浄土宗では、「南無阿弥陀仏」と声に出して唱える「 称名念仏 」を重視します。これは、阿弥陀仏の救いを求める行為であり、阿弥陀仏とのご縁を深めるための大切な実践です。

一方、浄土真宗では、念仏は「 帰敬(ききょう)の念仏 」と呼ばれます。これは、阿弥陀仏の救いに対する感謝の気持ちを表すものであり、必ずお浄土へ行けるという「信」が定まった後に、自然と称えられるものだと考えられています。つまり、念仏を唱えること自体が目的ではなく、阿弥陀仏の救いを信じているからこそ、自然と称えられる、というニュアンスが強いのです。

具体的には、

  1. 浄土宗:念仏を唱えることで、阿弥陀仏の救いを受け取る。
  2. 浄土真宗:阿弥陀仏の救いを信じているからこそ、感謝の念仏を称える。

この違いは、救われるための「方法」と、救われたことへの「感謝」という捉え方の違いとも言えます。

開祖と歴史的背景:宗派が生まれた理由

浄土宗と浄土真宗は、それぞれ異なる開祖によって開かれ、歴史的な背景も異なります。浄土宗は、 法然(ほうねん)上人 によって開かれました。法然上人は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて活躍し、当時の複雑な仏教の教えを、誰でも理解しやすい「念仏」による救いへと集約しました。

一方、浄土真宗は、法然上人の弟子である 親鸞(しんらん)上人 によって開かれました。親鸞上人は、法然上人の教えをさらに深め、「信」を徹底することで、より深い救いの境地を説きました。この親鸞上人の教えが、後の浄土真宗へと発展していくのです。

宗派 開祖 活躍した時代 主な教え
浄土宗 法然上人 平安時代末期~鎌倉時代 念仏による救い
浄土真宗 親鸞上人 鎌倉時代 「信」による他力本願の救い

お墓参りや法要の考え方:実践における違い

お墓参りや法要といった、私たちがお寺や仏様と関わる場面でも、浄土宗と浄土真宗では考え方に違いがあります。浄土宗では、お盆やお彼岸などの時期に、亡くなったご先祖様を供養するために、お墓参りや法要を行います。これは、ご先祖様も念仏を唱えて極楽浄土へ行かれることを願うという側面があります。

浄土真宗では、阿弥陀仏の救いによって、亡くなった人はみな等しく極楽浄土へ往生できるという考え方が根底にあります。そのため、法要はお焼香(しょうこう)をあげて阿弥陀仏の教えに感謝し、 「阿弥陀仏の救いをこの世で受け取っていること」 を再確認する場と捉えられます。つまり、亡くなった人を「弔う」というよりも、「 仏様への感謝を新たにする 」という意味合いが強いのです。

具体的には、

  • 浄土宗:ご先祖様の供養、往生を願う。
  • 浄土真宗:阿弥陀仏の救いへの感謝、仏様の教えを心に刻む。

といった違いがあります。

「往生」への道のり:自己の力と阿弥陀仏の力

「往生」、つまり極楽浄土へ行くための道のりについても、両宗派で考え方が異なります。浄土宗では、前述したように、念仏を唱えるという「 善行 」を積むことが、往生への道を開くと考えられています。もちろん、阿弥陀仏の慈悲があってこそですが、その慈悲を受け取るための私たちの側の行いが重視されます。

対して浄土真宗では、往生は「 阿弥陀仏の他力 」によってのみ成し遂げられると考えます。人間がどんなに善い行いをしようとしても、それは自分の力(自力)にすぎず、阿弥陀仏の救いには届かないとされます。だからこそ、阿弥陀仏が私たちに代わって成し遂げてくださった救いを、ただ「信じる」ことが、往生への唯一の道となるのです。

  1. 浄土宗:念仏という善行によって、阿弥陀仏の救いを受け取り、往生へ導かれる。
  2. 浄土真宗:阿弥陀仏の他力によって、すでに往生の道は開かれており、それを「信じる」ことで往生が決まる。

この考え方は、私たちがどのように阿弥陀仏と向き合うか、という根本的な姿勢の違いを表しています。

このように、浄土宗と浄土真宗は、似ているようでいて、救いへのアプローチや念仏の捉え方などに、それぞれ独自の考え方を持っています。どちらが良い、悪いということではなく、それぞれの教えを理解することで、仏教の奥深さを感じることができるでしょう。

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