「浄土真宗」と「真宗」、この二つ、実は同じものなんです!「浄土真宗と真宗の違い」について疑問に思っている方もいるかもしれませんが、ご安心ください。本願寺派や大谷派といった宗派名として「浄土真宗」が使われることが一般的ですが、教えそのものを指す場合は「真宗」とも呼ばれます。つまり、呼び方の違いであって、根本的な教えは同じなのです。
なぜ「浄土」がつくのか?
「浄土真宗」という名前には、「浄土」という言葉が含まれています。これは、阿弥陀仏が作り出した、仏様の世界である「極楽浄土」を指しています。この浄土へ往生することを目指す教えだから、「浄土」がついているんですね。親鸞聖人は、この浄土へ、自分のような罪深い人間でも、阿弥陀仏の「他力」という力によって必ず往生できると説かれました。
では、なぜ「真宗」という呼び方もあるのでしょうか?それは、親鸞聖人がご自身の教えを「真実の教え」という意味で「真宗」と名付けられたことに由来します。ですので、教えの核心を突く時には「真宗」という言葉が使われることが多いのです。
まとめると、
- 「浄土」:阿弥陀仏のいる理想の世界
- 「真宗」:親鸞聖人が説いた「真実の教え」
というように、それぞれの言葉が持つ意味合いが、「浄土真宗」という全体像をより深く理解する助けとなります。
宗派としての「浄土真宗」
「浄土真宗」という名前は、宗派として活動する際に広く使われています。親鸞聖人の教えを受け継いだお寺は、多くの場合、「浄土真宗」を名乗っています。
特に有名なのは、以下のような宗派です。
- 浄土真宗本願寺派(お西)
- 浄土真宗大谷派(お東)
これらの宗派は、それぞれ本山があり、独自の発展を遂げてきましたが、根本にある教えは変わりません。
| 宗派名 | 通称 | 本山 |
|---|---|---|
| 浄土真宗本願寺派 | お西 | 西本願寺 |
| 浄土真宗大谷派 | お東 | 東本願寺 |
このように、宗派名として「浄土真宗」が使われることで、それぞれの個性や地域による違いが生まれてきます。
教えの核心としての「真宗」
一方、「真宗」という言葉は、教えそのものの真髄を指し示す際に用いられることが多いです。親鸞聖人が後世に伝えようとした、阿弥陀仏の救いを信じることの大切さを表しています。
「真宗」の教えのポイントは以下の通りです。
- 「称名念仏」:阿弥陀仏の名号「南無阿弥陀仏」を称えること
- 「絶対他力」:人間の力ではなく、阿弥陀仏の力によって救われること
- 「悪人正機説」:罪深い人間こそ、阿弥陀仏に救われる本願であるという考え
「悪人正機説」というのは、自分は罪深い人間だと自覚している人こそ、阿弥陀仏の救いの対象なのだ、という考え方です。これは、世間一般で「善人」とされる人よりも、自分はダメだと思っている人の方が、より阿弥陀仏の救いを素直に受け入れられる、ということを意味しています。
「称名念仏」は、ただ単に「南無阿弥陀仏」と唱えるだけでなく、その言葉に込められた阿弥陀仏の願いを心で受け止めることが大切だとされています。
「南無阿弥陀仏」の意味
「南無阿弥陀仏」というお念仏は、「浄土真宗」の教えの中心です。この言葉には、阿弥陀仏への深い感謝と、その救いを信じる心が込められています。
「南無」とは、サンスクリット語の「ナマス」に由来し、「帰依します」「信じます」といった意味があります。そして「阿弥陀仏」は、無限の光と命を持つ仏様のことです。
つまり、「南無阿弥陀仏」は、
- 「阿弥陀仏に帰依します」
- 「阿弥陀仏を信じます」
という、阿弥陀仏への絶対的な信頼を表す言葉なのです。
このお念仏を称えることで、阿弥陀仏の救いをいただくことができるとされています。
「信」の大切さ
「浄土真宗」の教えで最も大切にされているのは、「信」です。これは、阿弥陀仏の救いを疑わずに信じきることです。
「信」のポイントをまとめると、
- 阿弥陀仏の「本願」(人々を救いたいという願い)を信じること
- 自分は阿弥陀仏の救いをいただく存在だと信じること
- この「信」は、自分の力ではなく、阿弥陀仏からいただくものだと知ること
「阿弥陀仏の本願」とは、数えきれないほどの長い時間をかけて、私たち一人ひとりを救うために立てられた阿弥陀仏の約束のようなものです。この約束を信じることが、「信」の第一歩となります。
そして、この「信」は、私たちが「信じよう」と思って信じられるものではなく、阿弥陀仏の方から与えてくださるものだとされています。これを「信心」と呼びます。
「他力」と「自力」
「浄土真宗」では、「他力」と「自力」という考え方が重要です。これは、救いを得るための力の源泉がどこにあるのか、という違いです。
「自力」とは、自分の力や行いによって何かを成し遂げようとすることです。例えば、一生懸命善行を積んだり、難しい修行をしたりして、自分自身が悟りを開こうとする考え方です。
一方、「他力」とは、阿弥陀仏の力によって救われるという考え方です。親鸞聖人は、人間は自分自身の力だけでは、煩悩(煩わしい思いや欲望)から逃れることができず、救われることができないと考えました。だからこそ、阿弥陀仏の計り知れない慈悲の力(他力)にすべてを委ねることが大切だと説かれたのです。
| 力 | 意味 | 浄土真宗における位置づけ |
|---|---|---|
| 自力 | 自分の力や行い | 救いの源泉とはならない |
| 他力 | 阿弥陀仏の力 | 救いの源泉であり、すべてを委ねるべきもの |
この「他力」こそが、「浄土真宗」の教えの核心であり、阿弥陀仏の救いを信じることにつながります。
「浄土」への往生
「浄土真宗」の教えの最終的な目標は、「浄土」への往生です。これは、阿弥陀仏が作り出した、一切の苦しみのない、穏やかで平和な世界のことです。
「浄土」への往生について、
- 「行」によって往生するのではなく、「信」によって往生する
- 臨終の際に、阿弥陀仏が迎えに来てくださり、浄土へと導いてくださる
- 浄土では、仏様として生まれ変わり、さらなる修行を積むことができる
と説かれています。
「行」とは、先ほども説明した「自力」の考え方で、何かをすることで救われようとすることです。しかし、「浄土真宗」では、この「行」ではなく、阿弥陀仏の救いを信じる「信」こそが、浄土へ往生するための唯一の道であるとされています。
そして、この「信」さえあれば、私たちが死んだ後、阿弥陀仏が必ず迎えに来てくださり、浄土へと連れて行ってくださると約束されているのです。
「浄土真宗」と「真宗」は、教えの根幹は同じですが、場面によって使い分けられる言葉です。どちらも、阿弥陀仏の救いを信じることの大切さを伝えています。この理解が、皆さんの仏教への興味を深めるきっかけとなれば幸いです。